2013年11月19日

大湯の北畠古墳

 少し前のことになりますが、大湯に古墳(自然の地形を生かした館ではなく人工の盛り土)があると聞いて行ってきました。リハビリ病院さんを右手に見て、四の岱グランドの向かいを国道103号線から右下へ3キロほど奥に入っていくと

 道の左側に標柱があります。(左) 道の右下には「殿様の井戸」があります。(右)(クリックすると画像が大きく鮮明になります)
大湯の北畠古墳大湯の北畠古墳









 ここは、江戸時代に鹿角から三戸へ抜ける主要道である来満街道の折戸というところで(左:看板)、さらに明治から昭和初期にかけては奥の不老倉鉱山が栄えて、昭和の終わり頃までは人が住んでいたようですが、現在は廃屋だけが残っています。(右)(左はクリックすると画像が大きく鮮明になります)
大湯の北畠古墳大湯の北畠古墳









大湯の北畠古墳 ここに安土桃山時代、織田信長に滅ぼされた伊勢の国司である北畠具教の息子、昌教卿が落ち延びて隠れ住んでいたというのです。その手助けをしたのは具教の家来である井上専正という人だそうです。(この人が花輪の専正寺さんを開いたといいます) 昌教卿は折戸に住むということで代々折戸氏を名乗ることにしたそうで、亡くなったときに土を盛って作られたのが、このてっぺんに松の木のある古墳ということです。この古墳の東側に長斎舘という屋敷跡があります。


 古墳の西側に「蔦江姫桜」という標柱がありました。蔦江姫というのは昌教卿を慕ってついてきた伊勢のお姫様で、お墓の代わりにこの山桜が植えられたということですが、数年前に写真の通り左奥側に倒れてしまいました。残念!
大湯の北畠古墳














大湯の北畠古墳 よく見たら、標柱にセミの抜け殻がくっついていました。ここで芭蕉を気取って一句。「閑かさや柱にくい込む蝉の殻」(笑)
 森閑として物音一つしない中で、500年も前の人たちの息づかいが伝わってくるようでした。まだ雪も積もらないのでまた行って見ようかと思います。                     
                                                     
                                    浦島次郎でした。





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Posted by のんびり探検隊2 at 10:00│Comments(0)歴史
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