2014年11月20日
もう一つの鹿角 田山
先月、「だんぶり長者」伝説をめぐる国文祭バスツアーに参加してきました。バス2台で、大日堂や吉祥院に行く前に、湯瀬を越えて岩手県八幡平市田山の長者屋敷跡に行きました。浦島次郎は初めてです。
田山の町からずいぶん、山あいに進み、ここは、貧乏夫婦が霊泉を見つけて大金持ちになったという屋敷跡です。秋田県が大半を占める伝説なのに、このようにきちんと整備してくれていたんですね。偉いなあ。
看板右側がまだ安代町(今は松尾村、西根町と合併して八幡平市)のままなのがご愛敬ですが、だんぶり長者伝説も丁寧に説明してくれています。(クリックすると画像が大きく鮮明になります。伝説の詳細についてはお読み下さい。)
奥に進んでいくと「霊泉」の跡がありました。この祠を寄進したのは鹿角(宮川村)の長峰の人となっています。(左) 霊泉ではないと思いますが、そばに湧き水が出ていました。コップもあって一口飲みましたがおいしい水でした!(右)
これが米代川の源流です。実は、恥ずかしながら田山が鹿角郡であったことを初めて知りました! そういえば、高速道路を走っていて分水嶺看板があり、こちら側が米代川水系、あちら側が安比川水系と書いてあったことを思い出しました。米代川からが鹿角郡だったんですね。
なるほど、田山の向こうには梨の木峠というのがあり、そこが分水嶺になっていてこちらが鹿角郡、そちらが二戸郡というわけだったんですね。文政4年(1821)の「南部盛岡藩領内絵図」では、確かに鹿角郡に入っているではありませんか!! 中心からやや左上、田山の「田」の字がつぶれて黒くなっていますが・・・ 湯瀬を過ぎてまだ鹿角郡が続いていたとは!!
どういう事情か分かりませんが、その後田山は二戸郡となり、新屋新町等と安代町を形成して、現在八幡平市になっているということです。そういえば花輪高校には田山や兄畑からけっこう生徒が来ていましたね。地理的にも歴史的にも不自然ではないことだったんですね。
ついでに鹿角郡花輪通りの全図をどうぞ。なお、鹿角の北半分は毛馬内通りです。(クリックすると画像が大きく鮮明になります)
浦島次郎でした。
田山の町からずいぶん、山あいに進み、ここは、貧乏夫婦が霊泉を見つけて大金持ちになったという屋敷跡です。秋田県が大半を占める伝説なのに、このようにきちんと整備してくれていたんですね。偉いなあ。
看板右側がまだ安代町(今は松尾村、西根町と合併して八幡平市)のままなのがご愛敬ですが、だんぶり長者伝説も丁寧に説明してくれています。(クリックすると画像が大きく鮮明になります。伝説の詳細についてはお読み下さい。)
奥に進んでいくと「霊泉」の跡がありました。この祠を寄進したのは鹿角(宮川村)の長峰の人となっています。(左) 霊泉ではないと思いますが、そばに湧き水が出ていました。コップもあって一口飲みましたがおいしい水でした!(右)
これが米代川の源流です。実は、恥ずかしながら田山が鹿角郡であったことを初めて知りました! そういえば、高速道路を走っていて分水嶺看板があり、こちら側が米代川水系、あちら側が安比川水系と書いてあったことを思い出しました。米代川からが鹿角郡だったんですね。
なるほど、田山の向こうには梨の木峠というのがあり、そこが分水嶺になっていてこちらが鹿角郡、そちらが二戸郡というわけだったんですね。文政4年(1821)の「南部盛岡藩領内絵図」では、確かに鹿角郡に入っているではありませんか!! 中心からやや左上、田山の「田」の字がつぶれて黒くなっていますが・・・ 湯瀬を過ぎてまだ鹿角郡が続いていたとは!!
どういう事情か分かりませんが、その後田山は二戸郡となり、新屋新町等と安代町を形成して、現在八幡平市になっているということです。そういえば花輪高校には田山や兄畑からけっこう生徒が来ていましたね。地理的にも歴史的にも不自然ではないことだったんですね。
ついでに鹿角郡花輪通りの全図をどうぞ。なお、鹿角の北半分は毛馬内通りです。(クリックすると画像が大きく鮮明になります)
浦島次郎でした。