2013年06月16日
街道をゆく ~鹿角街道~
6月8日(土)AM9:00、天気 快晴、気温28℃
ここは岩手県 八幡平市 七時雨山
【七時雨山と七時雨山荘】
かつて大噴火により形成されたカルデラは巨大な外輪山を生み、その内側ではのどかな放牧地と広大な畑地が広がり、阿蘇を彷彿させる。
(行ったことないけど・・・)
6年前、「七時雨ロマンの会」イベントが開催された折、自然を愛でる情操を養わせようと、親のエゴむき出しで小学4・5年生の娘をキャンプ&登山に強制参加させて以来の七時雨山である。
七時雨とはなんとも洒落た地名だが、その由来は坂上好陰(坂上田村麻呂のひ孫)の古文書に流霞道(ナガレシグレ道)と記されていたのが初出といわれているが、1日のうちに七回しぐれるほど天候が急変するからだともいわれている。
今回私がここに来たのは、七時雨マウントトレイルフェスのプレイベント「鹿角街道散策」に参加するためだ。
→こちら
【写真は街道散策を共にした花巻の夫婦。後ろは外輪山の田代山】
鹿角街道は、盛岡藩の古文書では「鹿角往来」「鹿角道」と呼び、その道筋は陸奥国盛岡城下を発し岩手郡に入り、寺田、荒屋、田山を経て鹿角郡に入り、米代川沿いに花輪、神田、松山を通って土深井から南部(盛岡)藩領を越えて、久保田(秋田)藩領の十二所、扇田へと向かう北奥羽の横断路線であった。
と、ウィキペディアに書いている。(なるほど!)
現在は、ところどころ牧野開拓によって街道が寸断されているが、地元保存会の活動により「一里塚」や「お助け小屋」跡地、「賽の神郡」などがそのまま残されており、いにしえの古道風景が楽しめる。
【道が途切れて放牧地を歩く。背後は七時雨山 南峰1,063m】
しかし、街道沿いには旅の途中で息絶えた方々の慰霊碑や供養塔が祀られており、かつて交通の難所だったことも同時に偲ばせる。
(週末、気軽にトレッキングなど、先人に申し訳なく複雑である・・・)
シナノキの大木に差しかかったとき、最初の休憩が訪れた。
ここの木陰は、まわりの木々より2~3度温度が低く感じられて心地がいい。
おそらく、大木の根や土にたくさんの水分が貯留されているからだろう。
【峠越えの途中、ここで亡くなった娘の供養塔(地蔵)が祀られていた。
地蔵の胴体部には花輪町出身の娘の名前と没年月日が刻まれている。】
司馬遼太郎の「街道をゆく」には、残念ながらこの道の記述はない。
彼が書き残したピースを埋めるべく、彼の視座に立ってこの道の記憶をたどってみる。
「嗚呼、この道を先人はどんな思いで歩いたのだろう・・・」
奈良時代、行基菩薩はこの道をとおり天台寺を開山したのであろうか。そしてこの地で仏法の教えを説いたのか・・・
おそらくは、奥州合戦に敗れた藤原泰衡もこの道を通って比内へ落ち延びたはずである。僅かな側近を従え、馬上で肩を落としこの峠を越えていったのか・・・
戊辰の役で楢山佐渡は旧式の火気・弾薬を積み、意気揚々とこの峠を越えたのだろう。しかし、きみまち阪の戦いに敗れ絶望とともに峠を下ったのか・・・
供養塔の娘さんや無名の旅人達も、荷篭片手に藁草履を履いて・・・
【昔を偲ばせる鹿角街道。行き交う人々の姿が見えるようである】
街道は春蟬の鳴き声がハウリングのように響き、さらに暑苦しさを増幅させる。
私はシナノキの木陰でタバコを燻らしながら、一人いにしえの人々に思いを馳せていた。
その時、シナノキの葉を揺らす一吹きの涼風~
葉音は蟬の声と溶けあい、まるで故人のすすり泣きや慟哭のように聞こえ、思わず周囲の気配をさぐってみる。(誰もいるわけないのだが・・・)
悲しみともなんともつかない気持ちが込み上げてくると同時に、風の姿を見た気がした。
・ ・ ・ そうか、いまは風になってこの峠を吹き渡っているのですね
一応、丁寧な言葉で独りごちてみる・・・
この道は、現在と過去との対話をかなえてくれる歴史ロマンの街道である
ここは岩手県 八幡平市 七時雨山
【七時雨山と七時雨山荘】
かつて大噴火により形成されたカルデラは巨大な外輪山を生み、その内側ではのどかな放牧地と広大な畑地が広がり、阿蘇を彷彿させる。
(行ったことないけど・・・)
6年前、「七時雨ロマンの会」イベントが開催された折、自然を愛でる情操を養わせようと、親のエゴむき出しで小学4・5年生の娘をキャンプ&登山に強制参加させて以来の七時雨山である。
七時雨とはなんとも洒落た地名だが、その由来は坂上好陰(坂上田村麻呂のひ孫)の古文書に流霞道(ナガレシグレ道)と記されていたのが初出といわれているが、1日のうちに七回しぐれるほど天候が急変するからだともいわれている。
今回私がここに来たのは、七時雨マウントトレイルフェスのプレイベント「鹿角街道散策」に参加するためだ。
→こちら
【写真は街道散策を共にした花巻の夫婦。後ろは外輪山の田代山】
鹿角街道は、盛岡藩の古文書では「鹿角往来」「鹿角道」と呼び、その道筋は陸奥国盛岡城下を発し岩手郡に入り、寺田、荒屋、田山を経て鹿角郡に入り、米代川沿いに花輪、神田、松山を通って土深井から南部(盛岡)藩領を越えて、久保田(秋田)藩領の十二所、扇田へと向かう北奥羽の横断路線であった。
と、ウィキペディアに書いている。(なるほど!)
現在は、ところどころ牧野開拓によって街道が寸断されているが、地元保存会の活動により「一里塚」や「お助け小屋」跡地、「賽の神郡」などがそのまま残されており、いにしえの古道風景が楽しめる。
【道が途切れて放牧地を歩く。背後は七時雨山 南峰1,063m】
しかし、街道沿いには旅の途中で息絶えた方々の慰霊碑や供養塔が祀られており、かつて交通の難所だったことも同時に偲ばせる。
(週末、気軽にトレッキングなど、先人に申し訳なく複雑である・・・)
シナノキの大木に差しかかったとき、最初の休憩が訪れた。
ここの木陰は、まわりの木々より2~3度温度が低く感じられて心地がいい。
おそらく、大木の根や土にたくさんの水分が貯留されているからだろう。
【峠越えの途中、ここで亡くなった娘の供養塔(地蔵)が祀られていた。
地蔵の胴体部には花輪町出身の娘の名前と没年月日が刻まれている。】
司馬遼太郎の「街道をゆく」には、残念ながらこの道の記述はない。
彼が書き残したピースを埋めるべく、彼の視座に立ってこの道の記憶をたどってみる。
「嗚呼、この道を先人はどんな思いで歩いたのだろう・・・」
奈良時代、行基菩薩はこの道をとおり天台寺を開山したのであろうか。そしてこの地で仏法の教えを説いたのか・・・
おそらくは、奥州合戦に敗れた藤原泰衡もこの道を通って比内へ落ち延びたはずである。僅かな側近を従え、馬上で肩を落としこの峠を越えていったのか・・・
戊辰の役で楢山佐渡は旧式の火気・弾薬を積み、意気揚々とこの峠を越えたのだろう。しかし、きみまち阪の戦いに敗れ絶望とともに峠を下ったのか・・・
供養塔の娘さんや無名の旅人達も、荷篭片手に藁草履を履いて・・・
【昔を偲ばせる鹿角街道。行き交う人々の姿が見えるようである】
街道は春蟬の鳴き声がハウリングのように響き、さらに暑苦しさを増幅させる。
私はシナノキの木陰でタバコを燻らしながら、一人いにしえの人々に思いを馳せていた。
その時、シナノキの葉を揺らす一吹きの涼風~
葉音は蟬の声と溶けあい、まるで故人のすすり泣きや慟哭のように聞こえ、思わず周囲の気配をさぐってみる。(誰もいるわけないのだが・・・)
悲しみともなんともつかない気持ちが込み上げてくると同時に、風の姿を見た気がした。
・ ・ ・ そうか、いまは風になってこの峠を吹き渡っているのですね
一応、丁寧な言葉で独りごちてみる・・・
この道は、現在と過去との対話をかなえてくれる歴史ロマンの街道である
合掌
ゴールドマン